『村上義光公』~太平記より~

アル

2011年06月27日 23:54

先日、訪れた、吉野に『村上義光公』の御墓が在る。

一体、どんな人物だったのでしょうか?

少し調べてみました。


室町幕府の創設期が登場する『太平記』には元弘の変の頃、後醍醐天皇が鎌倉幕府の執権、北条氏の軍勢と戦った笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉(ぐぶ)した9名の1人として登場する人です。


護良親王は後醍醐天皇の第二皇子であり。


親王を熊野へ逃がす際に
、村上義光は親王の鎧兜を身に付け、身代りとして迫り来る幕府軍を前に切腹をする。

その時に。

「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、
後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、
逆臣の為に亡され、
恨を泉下に報ぜん為に、
只今自害する有様見置て、
汝等が武運忽に尽て、
腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、
切腹して自刃した。

この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、
うつぶせに伏となって絶命したと言う壮絶な逸話があるみたいです。


後に親王は
『村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ』と褒め称えたそうです。
(注:北宮黝は古代中国の勇者)



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